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19世紀後半のフランス詩が教えてくれるもの
文学部松浦菜美子 助教【前編】
動物学者に憧れたアウトドア派が出会った一冊の本
私は子どもの頃、動物や昆虫が大好きで、図鑑で世界の珍しい動物を見たり、近所で昆虫採集し飼い方を調べたりして、生き物の世界にワクワクしていました。当時の将来の夢は獣医か薬剤師になること。今は亡き動物学者の千石正一先生が、自身の専門の爬虫類や両生類についてテレビで楽しそうに話すのを見て、研究者にも憧れを抱きました。転機は中学生の頃。太宰治の『人間失格』を読み、ひたすら自分の内面を見つめ言葉にするという世界に衝撃を受けました。その後、色々な文学作品を読んで言葉の美しさに感銘を受けたり、お小遣いで画集を買って見入ったりするようになりました。そのうちに「なぜ古代から現代に至るまで、人は芸術作品を生み出し続けてきたのか(それがなくても生活できると言えそうなのに?)」と疑問に思い、その理由が知りたくて大学の文学部に入学しました。
フランス語の美しさ、詩の表現の面白さに感銘
私が進学した京都大学では入学前に第二外国語を選択します。高校生の頃フランス映画を観て、フランス語の音の美しさ(とフランス映画の独特の感性)が印象に残っていたので、フランス語にしました。2回生の終わりに専門分野を決定する際、ものすごく悩みましたが、自分が親しんできた日本の作家に仏文科出身が多いことを不思議に思っていたこともあり、フランス語学フランス文学専修を選びました。その後なんとなく手に取った『フランス名詩選』をめくりながら、フランス詩を音読し、対訳を読むうちに、詩の比喩の美しさやイメージの繊細さに魅了されていきました。そんな時19世紀に活躍した詩人ステファヌ・マラルメについて書かれた『マラルメの想像的宇宙』(ジャン=ピエール・リシャール著)という研究書を見つけ「詩人の想像的宇宙って何だろう」「どうしたら詩のイメージの世界を研究できるのだろう」と興味を持ち、詩の研究を始めました。
これまでのマラルメ像と作品との間のギャップが気になる
マラルメは「詩人の消失」や「言葉に主導権を渡す」などの印象的な言葉を残しており、日本では崇高かつ難解なイメージが定着しています。事実、マラルメは詩論や文明論など様々な批評を発表しており、思想家としての一面も持っています。ただ実際に彼の詩を読むと、マラルメ自身が批評で述べた内容やこれまでに形成されたマラルメのイメージとは違う面も見えてきます。私はそれらと実際の作品の間のギャップが気になり、「マラルメはどう考えていたのか」といったマラルメ像や思想よりも、「マラルメはどう書いたのか」とか「彼の詩の言葉はどのように機能しているのか」といった文体や表現の工夫、その新しさを明らかにしようと試みてきました。マラルメは交友関係が広く、画家のマネやモネ、ルノワールらとも親交がありました。また、マラルメの詩「半獣神の午後」は作曲家のドビュッシーに着想を与え、《牧神の午後への前奏曲》が生まれています。マラルメは19世紀のフランスにおける文学と芸術の豊かな関わりを見るうえでも、とても興味深い研究対象なのです。
大きな変革期を迎えた19世紀の芸術家たち
19世紀は社会のシステムが大きく変わった時代でした。前世紀末のフランス革命以降、フランスは徐々にではありますが王政を倒し民主主義を実現していきます。また産業や科学の発展が人々に物質的豊かさをもたらしました。芸術も王侯貴族など特権階級のものから市民が親しめるものとなり、芸術家の立場も大きく変わります。王侯貴族の庇護を受けたり、公的な場で作品を制作したりするのではなく、若者たちが個人の資格で美や芸術を求め、詩人や画家を志しました。当時はナポレオンの偉業をたたえるなど、従来の公的な役割を果たそうとした詩人もいましたが、今はそうした作品はほとんど読まれず、むしろボードレールやヴェルレーヌなど経済的な困難を抱えながらも自らの美学を極め才能を発揮した詩人たちの詩が読まれています。マラルメもまさにそんな時代の詩人です。既存の枠組みが変わり、混沌たる時代に生きているという点では、現代に通じるものがあるかもしれません。